遠藤暁のブログ

青年海外協力隊に関することを中心に、海外で感じたことや自分の思いなどを発信するブログです。

サッカーを通しての“教育”はナンセンスなのか? 15年以上のサッカー経験者が考える

この記事をシェアする

f:id:satoru54:20190511211250j:plain

 

こんにちは。遠藤暁(@str_se)です。

 

先日twitterでこんな投稿を見つけました。

 

 

このツイートに対していろんな意見が見受けられたので、今まで15年以上プレイヤーとしてサッカーをしてきて、さらに現在は青年海外協力隊として南米のボリビアで子どもたちにサッカーを教えているぼくが、サッカーと教育に関して掘り下げていきます。

 

ちなみにこの方の意見はその後のツイートでも続いているので、一部だけ切り取って話題にするのは嫌なのですべて載せておきますね。

 

 

 

 

それでは本題に入ります。

 

サッカーを通しての教育はまったくナンセンスではない

f:id:satoru54:20190511205153j:plain

 

先に結論を述べると、サッカーを通しての教育がナンセンスだとはまったく思いません。

 

この方はただ“ナンセンス”といっているのではなく

サッカーを通じて教育しようとするのはナンセンスって言ってるのは、プレイヤーに主体的な判断とアクションが求められるゲームに、受け身教育を受けてきた我々日本人の教育的要素を入れるのは違うよねと。

 と、言っています。

 

“サッカーにおいて必要な要素やスキル”

“日本の教育で育まれる能力やスキル”

 

この2つが全然違うから、日本の教育的要素をサッカーに取り入れるのは違うというお話。

サッカーでは“主体的な判断”が大切なのに、“受け身になりがちな日本の教育的な要素”をサッカーに取り入れてどうするの、ということ。

 

指導者次第と言ったらそれまでですが、この部分に関しては指導者の器量次第でいくらでも主体性を重んじたトレーニングや指導はできるので、サッカーを通した指導が“ナンセンス”だとは感じません。

 

挨拶をする『理由』を理解するにはサッカーはうってつけ

f:id:satoru54:20190511205625j:plain

 

上記の一つのツイートの中に「シャツ入れを強制」「挨拶を強制」というセリフがあります。

 

子どもたちにシャツ入れ強制するとか、挨拶を強制するとか…超ダサくないですか。「気をつけ!礼!」とか世界でやらないです。

 

ぼくは15年以上サッカーをやってきてシャツ入れを強制されたことはないのでなんとも言えませんが、挨拶に関してはある程度強制されてもいいんじゃないかなと。

 

“強制”という言葉によってあたかも“やらされている感”が出ますが、おそらく現場レベルではコーチは「ちゃんと挨拶しよう」と軽くいう程度だと思います。

 

挨拶の形(一列に並んで礼なのか握手なのかハグなのか)は置いておいて、そもそも「挨拶」なんて物心ついた時から大人に「ちゃんと挨拶しなさい」って刷り込まれて覚えるもの。

 

でも一番最初に子どもに挨拶を教えるときに、挨拶をする理由なんていちいち教えませんよね。

 

「なぜ挨拶をするのか」は、年を重ねるにつれてどこかのタイミングで誰かに

“感謝の気持ちを伝えるため”

“相手をリスペクトするため”

と言われて初めて知るもの。

 

そして子どもたちがそういった「挨拶をする理由」を理解するためには、サッカーはうってつけだと思うんです。

サッカーに限らず「スポーツ」ならなんでもいいんですが。

 

・相手がいて初めて競技が成り立つから、相手に感謝する

・審判がいないと試合ができないから、審判にも感謝する

 

サッカーをやってきた人なら一度は聞いたことがあるようなセリフだと思いますが、サッカーを通してだとこういった形で『なぜ挨拶をするのか』を理解しやすい。

 

なぜ挨拶をするのかを理解できれば、自然と『ちゃんと挨拶はしたほうがいい』という流れになるのは当然のこと。

 

そして結果的に『しっかり挨拶ができる人』になるんです。

 

挨拶の形なんてなんだっていい

f:id:satoru54:20190511210243p:plain

 

そして挨拶の「形」を考えてみると、ぶっちゃけ挨拶の形なんてなんだっていい。

 

子どもたちにシャツ入れ強制するとか、挨拶を強制するとか…超ダサくないですか。「気をつけ!礼!」とか世界でやらないです。

 

挨拶にしても、儀式的でやらされる握手とか「気をつけ!礼!」じゃなくて、同じ空間でサッカーをプレーする仲間たち(相手も、そこにいる全ての人)に愛とリスペクトを含めたもの(握手でもハグでもなんでも)そのような本質が子どもたちに伝わってないのでは?と思ってしまうのは私だけなのか

 

日本だとお辞儀をしたり、試合のときは横一列に並んで挨拶をすることがほとんど。

一方海外だと握手やハグをして挨拶することがほとんど。

 

人間は目新しいものや新鮮なものは、なんだか素晴らしいと感じてしまいがち。

 

横一列に並んで挨拶をするのに慣れてる日本人からすると

「握手とかハグって気持ちがこもってていいね」

という感覚になり、日本の横一列の挨拶に挨拶がこもっていないように感じてしまう。

 

しかし海外のひとたちからすると、日本の整列しての挨拶が目新しく

「しっかりしてて礼儀正しくていいね」

となるわけです。

 

実際にエチオピアボリビアでサッカーを教えてきましたが、日本の整列しての挨拶を尊敬している人や「すごいね」と言ってくれる人も何人もいました。

 

自分が見慣れてマンネリ化してるものに「感情がこもってないな」と感じてしまうのは、ある意味当然のこと。

 

日本の「気をつけ!礼!」の挨拶に愛やリスペクトがこもってないなんて思いませんし、握手やハグなら愛やリスペクトが必ずこもっているとも思いません。

 

愛やリスペクトを含めた挨拶なんて、挨拶の『形』に左右されるものじゃなくて、個人の問題。

 

上記のツイートの“本質”の部分は、サッカーを通して身につけたり教えていくことは十分可能だと思います。

 

サッカーを通しての教育で、『一人の人間として』成長していける 

f:id:satoru54:20190511210349j:plain

 

もう一度結論を言うと、サッカーを通しての教育がナンセンスだとは思いません。

 

日本の教育的要素が受け身なものばかりで主体性を育まないなら、それこそ主体性を身につけるためにサッカーは魅力的です。

 

サッカーで身につけるべき要素と日本の教育的要素がマッチしないといっても、そもそも日本の教育的要素をそのままサッカーに落とし込んで指導する指導者ってほとんどいないと思います。

 

 

ぼく自身がサッカーを通して成長してきた人間で、サッカーがぼくを『一人の人間として』大きく成長させてくれました。

自分自身が経験してきたからこそ、サッカーを通した教育って素晴らしいなと思えるんです。

  

www.satoruendo.com

 

たまたまぼくが関わってきた指導者がみんな素晴らしい人たちだっただけかも知れません。

ぼくが知らないところでは、サッカーを通してとんでもない指導をしている指導者がいるのかも知れません。

 

でも今の時代には、そういったよくわからない指導をしている指導者の方が少数だと思うんですよね。

保護者の目も厳しいですし、小さなことでなにかと問題になるご時世ですから。

 

サッカーを通して“人として”成長してきたという自負があるからこそ、サッカーを通した教育に可能性を感じています。

  

今は日本ではなくボリビアで子どもたちにサッカーを教えていますが、“人として”立派な人間になるために必要な要素は日本でもボリビアでも変わりません。

 

サッカーを通しての教育で子どもたちが立派に育っていけるという考えは、これからもずっと持ち続けていきます。


 

www.satoruendo.com